ながはま将棋まつり その弐 山崎先生!!@長浜将棋名人塾
長浜将棋名人塾に参加しました。だって山崎先生なんですもの☆
「みなさん、おはようございます。本日は朝早くからありがとうございます。えー、そうですね、ちょっと久しぶりに人前に出てくるので、竜王戦に負けてちょっと引きこもってまして、それ以来に出てくるので多少緊張しておりますが、いつも大山先生とか昔の名局を解説させて頂いていたのですけど、今回は明日が名人戦400年記念の文化検定もあるということなので、今年連盟が力を入れているということなので、ちょっと元を振り返ってみようかなと思って、現存する名人の最古の棋譜(※1)が残っていたので、慶長12年ですかね、1607年ですね。初代大橋宗桂(おおはし そうけい)さんの棋譜ですね。まだこの時は初代大橋宗桂は名人は襲名していなくて、この6年後かな、この6年後に徳川幕府から扶持(費用、給料みたいなもの)をもらってということなんですね。50石5人扶持(※2)と書いてありましたね」
(どういう意味か聞かれていましたが、)「いやあ、僕もちょっと、それは…50石ってどのくらいなんですかね。ただ、前にテレビを見てたら、大橋宗桂は名人なんですけど、扶持米、今に換算すると年に100万~150万。名人だから生活できるのかな、と思っていたんですけど、当時は色々と賄いとか、付き合いの接待費が要ってほとんどが消えていたので(※3)どちらかというと、初代とか最初の名人のほうはむしろ幕府の所轄、頂いている所領地に長屋を建てて、その家賃収入で暮らしてたということで、当時名人と言っても将棋で暮らしていけるわけではなかったんだなあ、と、改めて『今、ありがたいなあ』と感じている次第で、まだ名人になる前の大橋宗桂と、本因坊算砂(ほんいんぼう さんさ)、これは囲碁の初代の本因坊の襲名の方ではあるんですけれども、将棋も強くてですね、むしろその大橋宗桂というのは本因坊算砂の門弟で修行されてて、ただずっと将棋の才能がずば抜けていたので、将棋どころとして独立して、それが将棋の家元、今の名人の原型になったということで。だから、大橋宗桂さんがずばぬけて将棋の才能がなかったらもしかしたら名人という家元がなかったかもしれないってことで。その2人の対局ってことで、まあ、やはり大橋宗桂さんもこの頃は強くなかったかも知れないのですけれども、やはり格というものが当時も絶対ありますので、後手番は本因坊算砂、先手番が大橋宗桂」
ざっくりとしたポイント
・最古の棋譜が相振り飛車であった。
・当時は形の美しさ、駒組の美しさも重要とされていた。
・この将棋のポイントとなる点でもあるが、当時は打ち歩詰めというルールが確立されていない(※4)
・当時の将棋は1~2時間くらい、長くなったのは江戸時代の「御城将棋」から。「御城将棋」でもそれほど長い将棋はなかったようだ。
・本因坊算砂は囲碁だけでなく、将棋もすごく強い人であった。
※ファンには申し訳ないのですが、私は安食さんを聞き手として評価してませんので、割愛させて頂きました。(いや、まあ、割愛するところもないくらいの合いの手しか入れてなかったのもあります、正直……)
この講義が終わりましたら、指導対局がありました。ここでの棋士は山崎七段、安食女流初段、貞升女流1級、上田女王の4人で、くじでどの先生に当たるかは決まりました。私は初美ちゃんだったので、山ちゃん外れたのは残念でしたが、初美ちゃんなら良かったわ、って。
初美ちゃんの指導は初めてでしたが、すごく上手でした。さすが普段からセミナー講師やったりしてるから違うわね。「ここでお会いするとは」「また東京で指しましょう」とお声いただいて感激しました。
山ちゃんは二階でした。初美ちゃんが次のサイン会のため、早くに切り上げたため、それをいいことに二階で山ちゃんの指導対局を見学させていただいたのです。
真剣な山ちゃん!
(※1)最古の棋譜
先手▲大橋宗桂 後手△本因坊算砂
▲7六歩△3四歩
▲4八銀△4四歩
▲4六歩△4二銀
▲4七銀△4三銀
▲3六歩△4二飛
▲4八飛△3三角
▲1六歩△1四歩
▲2六歩△6二玉
▲6八玉△7二玉
▲7八玉△6二銀
▲5八金右△5四歩
▲5六歩△5三銀
▲6八銀△6四歩
▲6六歩△5二金左
▲6七銀△6三金
▲9六歩△9四歩
▲8六歩△7四歩
▲8七玉△8二玉
▲7八金△7二金
▲7七桂△8四歩
▲3八飛△3二飛
▲2五歩△5一角
▲2八飛△2二飛
▲6五歩△7三桂
▲6四歩△同金
▲4五歩△3三角
▲3七桂△6五歩
▲2九飛△7五歩
▲同歩△同金
▲7六歩△7四金
▲6九飛△6四銀
▲6五桂△同桂←会場への次の一手①「△6五桂」なかなか見えない
▲6六歩△8五歩←会場への次の一手②「△8五歩」桂が効いてるうちに指したい
▲同歩△7七歩
▲7九金△7五桂←会場への次の一手③「△7五桂」算砂がスピード重視と見た
▲同歩△同銀
▲7六歩△8六歩
▲9八玉△9五歩←会場への次の一手④「△9五歩」銀を逃げずに力強く
▲7五歩△同金
▲7六銀打△同金←ここから先手が力強い、銀打ち
▲同銀△9六歩
▲6五歩△7八銀←会場への三択問題「△7八銀」
▲9二歩△同香←▲9二歩~▲8四桂を組み合わせて攻める
▲8四桂△5一角
▲7四桂△8三玉
▲9二桂成△同玉
▲7七角△6九銀成
▲同金△7五歩
▲9三歩△8一玉←絶妙な一手「▲9三歩」
▲8六角△7六歩
▲9二金△7一玉
▲5三角成△6一玉
▲6四香△6二歩
▲4三馬△5二桂
▲8七玉△8九飛←ここで大橋宗桂は勝ちを読み切ったか
▲7八玉△7七歩成
▲同玉△6九飛成
▲5三銀△6六銀
▲8六玉△8九龍
▲9五玉△6三歩
▲6二銀打△同角←間違えられない「▲6二銀打」
▲同銀成△同金
▲同桂成△同玉
▲5三角△7三玉
▲8四金△7二玉
▲7三歩△6一玉
▲6三香成
まで133手で先手大橋宗桂の勝ち
(※2)
下記のサイトを参考に、自分なりに計算してみました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1332803108
http://www.kuu-kikaku.jp/rekishi/ryou-mon-rate.html
50石+5人扶持(=約25石)=知行75石
75石×1石あたり28,000=210万
取り分65%として、約137万 ってところなのでしょうかねぇ。だいたい山崎先生の説明と一致してますね。
(※3)
このあたりの話は映画にもなった「武士の家計簿」に詳しく出ています。当時の生活にご興味ある方は読んでみるとよろしいかと思います。
(※4)
ウィキペディアより一部抜粋
二代大橋宗古(宗桂の子)が著書「象戯図式」の巻末でルールを成文化する。
・千日手の禁止
・行き所のない駒(を打つ、もしくは不成によりその状態にすること)の禁止
・二歩を打つことの禁止
・打ち歩詰めの禁止
えりこノートならぬ、はなノートができそうなくらいです(自画自賛)。
「みなさん、おはようございます。本日は朝早くからありがとうございます。えー、そうですね、ちょっと久しぶりに人前に出てくるので、竜王戦に負けてちょっと引きこもってまして、それ以来に出てくるので多少緊張しておりますが、いつも大山先生とか昔の名局を解説させて頂いていたのですけど、今回は明日が名人戦400年記念の文化検定もあるということなので、今年連盟が力を入れているということなので、ちょっと元を振り返ってみようかなと思って、現存する名人の最古の棋譜(※1)が残っていたので、慶長12年ですかね、1607年ですね。初代大橋宗桂(おおはし そうけい)さんの棋譜ですね。まだこの時は初代大橋宗桂は名人は襲名していなくて、この6年後かな、この6年後に徳川幕府から扶持(費用、給料みたいなもの)をもらってということなんですね。50石5人扶持(※2)と書いてありましたね」
(どういう意味か聞かれていましたが、)「いやあ、僕もちょっと、それは…50石ってどのくらいなんですかね。ただ、前にテレビを見てたら、大橋宗桂は名人なんですけど、扶持米、今に換算すると年に100万~150万。名人だから生活できるのかな、と思っていたんですけど、当時は色々と賄いとか、付き合いの接待費が要ってほとんどが消えていたので(※3)どちらかというと、初代とか最初の名人のほうはむしろ幕府の所轄、頂いている所領地に長屋を建てて、その家賃収入で暮らしてたということで、当時名人と言っても将棋で暮らしていけるわけではなかったんだなあ、と、改めて『今、ありがたいなあ』と感じている次第で、まだ名人になる前の大橋宗桂と、本因坊算砂(ほんいんぼう さんさ)、これは囲碁の初代の本因坊の襲名の方ではあるんですけれども、将棋も強くてですね、むしろその大橋宗桂というのは本因坊算砂の門弟で修行されてて、ただずっと将棋の才能がずば抜けていたので、将棋どころとして独立して、それが将棋の家元、今の名人の原型になったということで。だから、大橋宗桂さんがずばぬけて将棋の才能がなかったらもしかしたら名人という家元がなかったかもしれないってことで。その2人の対局ってことで、まあ、やはり大橋宗桂さんもこの頃は強くなかったかも知れないのですけれども、やはり格というものが当時も絶対ありますので、後手番は本因坊算砂、先手番が大橋宗桂」
ざっくりとしたポイント
・最古の棋譜が相振り飛車であった。
・当時は形の美しさ、駒組の美しさも重要とされていた。
・この将棋のポイントとなる点でもあるが、当時は打ち歩詰めというルールが確立されていない(※4)
・当時の将棋は1~2時間くらい、長くなったのは江戸時代の「御城将棋」から。「御城将棋」でもそれほど長い将棋はなかったようだ。
・本因坊算砂は囲碁だけでなく、将棋もすごく強い人であった。
※ファンには申し訳ないのですが、私は安食さんを聞き手として評価してませんので、割愛させて頂きました。(いや、まあ、割愛するところもないくらいの合いの手しか入れてなかったのもあります、正直……)
この講義が終わりましたら、指導対局がありました。ここでの棋士は山崎七段、安食女流初段、貞升女流1級、上田女王の4人で、くじでどの先生に当たるかは決まりました。私は初美ちゃんだったので、山ちゃん外れたのは残念でしたが、初美ちゃんなら良かったわ、って。
初美ちゃんの指導は初めてでしたが、すごく上手でした。さすが普段からセミナー講師やったりしてるから違うわね。「ここでお会いするとは」「また東京で指しましょう」とお声いただいて感激しました。
山ちゃんは二階でした。初美ちゃんが次のサイン会のため、早くに切り上げたため、それをいいことに二階で山ちゃんの指導対局を見学させていただいたのです。
真剣な山ちゃん!
(※1)最古の棋譜
先手▲大橋宗桂 後手△本因坊算砂
▲7六歩△3四歩
▲4八銀△4四歩
▲4六歩△4二銀
▲4七銀△4三銀
▲3六歩△4二飛
▲4八飛△3三角
▲1六歩△1四歩
▲2六歩△6二玉
▲6八玉△7二玉
▲7八玉△6二銀
▲5八金右△5四歩
▲5六歩△5三銀
▲6八銀△6四歩
▲6六歩△5二金左
▲6七銀△6三金
▲9六歩△9四歩
▲8六歩△7四歩
▲8七玉△8二玉
▲7八金△7二金
▲7七桂△8四歩
▲3八飛△3二飛
▲2五歩△5一角
▲2八飛△2二飛
▲6五歩△7三桂
▲6四歩△同金
▲4五歩△3三角
▲3七桂△6五歩
▲2九飛△7五歩
▲同歩△同金
▲7六歩△7四金
▲6九飛△6四銀
▲6五桂△同桂←会場への次の一手①「△6五桂」なかなか見えない
▲6六歩△8五歩←会場への次の一手②「△8五歩」桂が効いてるうちに指したい
▲同歩△7七歩
▲7九金△7五桂←会場への次の一手③「△7五桂」算砂がスピード重視と見た
▲同歩△同銀
▲7六歩△8六歩
▲9八玉△9五歩←会場への次の一手④「△9五歩」銀を逃げずに力強く
▲7五歩△同金
▲7六銀打△同金←ここから先手が力強い、銀打ち
▲同銀△9六歩
▲6五歩△7八銀←会場への三択問題「△7八銀」
▲9二歩△同香←▲9二歩~▲8四桂を組み合わせて攻める
▲8四桂△5一角
▲7四桂△8三玉
▲9二桂成△同玉
▲7七角△6九銀成
▲同金△7五歩
▲9三歩△8一玉←絶妙な一手「▲9三歩」
▲8六角△7六歩
▲9二金△7一玉
▲5三角成△6一玉
▲6四香△6二歩
▲4三馬△5二桂
▲8七玉△8九飛←ここで大橋宗桂は勝ちを読み切ったか
▲7八玉△7七歩成
▲同玉△6九飛成
▲5三銀△6六銀
▲8六玉△8九龍
▲9五玉△6三歩
▲6二銀打△同角←間違えられない「▲6二銀打」
▲同銀成△同金
▲同桂成△同玉
▲5三角△7三玉
▲8四金△7二玉
▲7三歩△6一玉
▲6三香成
まで133手で先手大橋宗桂の勝ち
(※2)
下記のサイトを参考に、自分なりに計算してみました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1332803108
http://www.kuu-kikaku.jp/rekishi/ryou-mon-rate.html
50石+5人扶持(=約25石)=知行75石
75石×1石あたり28,000=210万
取り分65%として、約137万 ってところなのでしょうかねぇ。だいたい山崎先生の説明と一致してますね。
(※3)
このあたりの話は映画にもなった「武士の家計簿」に詳しく出ています。当時の生活にご興味ある方は読んでみるとよろしいかと思います。
(※4)
ウィキペディアより一部抜粋
二代大橋宗古(宗桂の子)が著書「象戯図式」の巻末でルールを成文化する。
・千日手の禁止
・行き所のない駒(を打つ、もしくは不成によりその状態にすること)の禁止
・二歩を打つことの禁止
・打ち歩詰めの禁止
えりこノートならぬ、はなノートができそうなくらいです(自画自賛)。
by terummy10
| 2012-10-25 11:57